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| 風水の歴史 |
1.風水の起源
風水の歴史を紐解いてみますと、風水の起源が古代中国であることがわかります。
今から3500年ほど前の「商」代には、土地に建物を建ててよいかどうかは、占いによって決めていました。亀の甲羅や獣の骨を焼いてひびの入り具合で吉凶を判断していたのです。それから1800年ほど下った三国時代には、墓や住宅の配置を風水的に考えるようになりました。郭(ハク)という人物が「氣は風に乗じて散じ、水に界られて即ち止まる」と書き残していますが、これが風水という言葉の最初です。この頃は、方位
を計測する方法が確立しておらず、山や川、池の形や勢いからその土地の氣の流れを判断する方法でした。
特に山を背に、前方に水を望む環境が吉とされましたが、これは人間と自然とを同調させて「気持ちが良いと感じる空間」を吉としたためです。
7世紀から13世紀にかけては羅針盤即ち方位磁石が普及し、風水が全盛期を迎えるようになります。江西で広まった地形を観察して判断する流派と、福建で広まった八卦や干支、羅針盤を用いて判断する流派の二つに大きく分かれました。やがて二つの流派は混ざり合って、17世紀半ばまで風水は大いに発展しました。
2.琉球風水の歴史
沖縄では14世紀後半、察度王の時代に当時風水の盛んだった福建から36姓が久米村に移り住みました。彼らによって沖縄に風水思想がもたらされたと思われます。記録上では、1667年に周国俊という人が福建で風水を学んで帰って来たというのが最初で、その後1868年の明治維新に至るまで琉球王国はわざわざ風水を学ぶために留学生を福建に送っているのです。あの有名な蔡温(さいおん)もその中の一人です。
1713年に毛文哲と蔡温が首里城の風水判断をしましたが、その内容は「首里城の地は氣の流れが良く、国殿の向きや道路の方向、門の配置がみな風水の考えに適っている。前方に眺められる慶良間列島が氣の漏れを塞いで、左の小禄、豊見城方面
の丘陵や、右の北谷、読谷山の峰がそれぞれ都を守る形になっており、後方の山々は城を背後から守護し嶽々の森は氣の発生を助けていて、首里の都は大変風水が良い。」というものでした。
一方、風水的に欠陥があるところには松の木を植えて気が漏れるのを防ぐように指示しています。
このように、蔡温の時代には森や御嶽(うたき)から生ずる氣のエネルギーを重要視し、風水を改善する方法として植林がしばしば用いられています。
経済的な視点からは、那覇、泊、安謝の港が国の血脈であり、吉方から進入するようになっていて良い風水をもたらしている。これらを、保全して活力を与えることが重要であると言っています。琉球王朝時代には、海外との貿易がかなり大きなウエイトを占めていたことが伺えます。蔡温の時代から300年ほど経った現在でも、那覇、泊、安謝の三江は物流の拠点として重要な位
置を占めています。
また、戦後沖縄の大動脈である国道58号線が作られ西海岸地域が経済的に大きく発展しましたが、その背景には風水的吉相地であったことも関係しているのではないでしょうか。
この吉相地に那覇国際空港も作られ、現在旅客や物流の拠点となっています。 |
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